2016年3月13日、立命館大学において、第22回研究会が開催されました。
今回は2件の研究発表と、同じく2件の合評会が行われました。
以下にその様子をご報告致します。


・研究発表1
奥村華子氏「労働とエネルギー 鉱山/汽車/海上―坑内から〈外の世界〉へ―」

 炭鉱労働者がプロレタリアートとして編成される際に起こる運動全体への影響を、「エネルギー」を視座に考究する報告であった。本発表では、直接配付制という特徴を有し、読者共同体が強く意識されていた『戦旗』を主な例として、そこに発表された三つのテクストが横断的に考察された。氏はまず、秀島武「汽車の中で」から、労働者の団結を物理的なレベルで可能ならしめるものとしての「汽車」に着目する。石炭という「エネルギー」の大量輸送手段でもある鉄道は、また、松田解子「風呂場事件」においても、その存在を強調的に看取できる。閉鎖的な労働の場である鉱山において、鉄道が「外の世界」との接続を象徴的に表出するものだという指摘は重要であろう。加えて、鉱山と同様、外地から隔たった特殊な労働環境である海上労働について、森山啓「年寄つた水夫」をもとに分析がなされる。海上労働や炭鉱労働は日常的に死と隣り合わせの状態にあり、そうした現場で働く労働者を、氏は運動において闘争の前衛に立つ存在として位置づけておられた。質疑では、プロレタリア文学内における労働の階層性や、『戦旗』の提唱する理論と実際のテクストとの差異をいかに評価するか、という点について議論が交わされた。「エネルギー」という観点から闘争のありようを動的に把捉していく、刺激的な論考であった。


・研究発表2
藤原崇雅氏「武田泰淳「うつし絵」における兪平伯」

 数多くの中国小説を残した武田泰淳が、特に親炙していた文学者・兪平伯に材を取った作品である「うつし絵」から、作家の企図を析出する試みであった。兪の随筆集に基づくかたちで構成された本作について、氏は典拠との比較を緻密に行う。さまざまな翻案によって、作中のユウ氏は皇帝と対蹠的な関係に布置されていることを、氏の調査は明確化した。しかし、物語はユウ氏と皇帝を徐々に重ね合わせてゆく。そこからは、「想像的な転倒」によって弱者を暴力的に加害してしまう「皇帝心理」が、皇帝からは最も遠いと考えられていたユウ氏の中にも萌芽しうる、そのありようが看取される。非人道的な振る舞いが、個人の人格や思想によって行われるのではなく、環境や制度によって発動するという暴力の構造を、泰淳は本作を通して表現している。兪平伯を、そうした暴力への思惟を泰淳にもたらす触媒として見る氏の論考は、極めて興味深いものであろう。本発表に対して、作中に登場する女性をどのように位置づけるのか、また、氏が抽出した暴力の構造をいかに理論化するかといった点を中心に質疑応答がなされた。比較的言及のなされていない泰淳の中国小説に対する氏の意欲的な取り組みは、泰淳研究の新たな地平を拓くものとして意義深いものである。


・合評会1
池田啓悟著『宮本百合子における女性労働と政治』を書き終えて
鳥木圭太氏・萬田慶太氏(聞き手)、池田啓悟氏(著者)

 池田啓悟氏の著書『宮本百合子における女性労働と政治――一九三〇年代プロレタリア文学運動の一断面――』(風間書房、2015年)についての合評会である。著者は、百合子がいかにしてプロレタリア作家になったのか、という問いに出発して、百合子のプロレタリア文学運動期から戦後に到るまでの諸作品を論じることで、そこに描きこまれた女性を取り巻く問題群と、プロレタリア文学運動の要請する理論との間にある矛盾を析出していく。本書について、フェミニズムおよびジェンダー理論への直接的言及があまり見られないのはどのような意図によるものなのか、また、百合子という作者主体および語り手の位相とその階層性をどのように処理するのか、という点を中心に議論が交わされた。また、著者が本書によって立ち上げようとした百合子の作家イメージについても、それをより具体的に掘り下げるような質問が提出された。百合子作品の中に残されている数々の矛盾を精緻に辿り、それを契機にテクストの読み直しをはかる池田氏の実践は警抜なものであり、合評会では上記のほかにも、会場全体で盛んな意見交換が行われたと記憶している。


・合評会2
禧美智章著『アニメーションの想像力』の著者に聞く
水川敬章氏・雨宮幸明氏(聞き手)、禧美智章氏(著者)

 禧美智章氏の著書『アニメーションの想像力――文字テクスト/映像テクストの想像力の往還――』(風間書房、2015年)についての合評会である。本書では、戦前の初期アニメーションである『煙突屋ペロー』から、泉鏡花「天守物語」や宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、また押井守の諸作品などを題材に、文学・映画・アニメーションの多岐にわたる媒体を通じて往還的に伝播していく「想像力」の問題が論じられている。押井の発想やドゥルーズの「時間イメージ」を援用して、著者は映像テクストを「読む」際に要請される、観客側の能動的な「想像力」の駆使に着目する。この「想像力」という表現、また本書におけるその用法をめぐって、質疑では集中的に議論が展開された。また、アニメーションや映画といった共同制作による作品を取り扱う際に、制作者側の作者主体をどのように処理するのかという点も議論の俎上に載った。論者の主体をいかに位置づけるかという問題は文学研究のみにとどまるものではなく、そうした根底的な問い直しをも提起せしめる禧美氏の多角的な論考は、啓発的なものとして実感された次第である。


その後、懇親会場に席を移し、発表者を囲んでなごやかな歓談が交わされました。
(文責・加藤大生)

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