今回はオンラインでの開催となりましたが、多くの方々にご参加いただき、盛会となりました。
以下にその様子をご報告いたします。
・神山奈央氏「「美しさ」と「暴力」、そして「意思としての痙攣」――川端康成『片腕』をめぐって――」
川端康成『片腕』を題材に、既存の解釈とは異なる精緻な読解を仕掛ける発表であった。従来、現実離れした幻想的な美しさが読まれがちであった本作に対して、神山氏は批判的な距離をとる。本作に充溢するその幻想性が、性暴力を覆い隠すヴェールとしても機能しているという氏の指摘は重要だろう。「私」の語りによって不可視化されているものが、丁寧なテクスト読解によって炙り出されていく。同時代状況との接続から「私」が内面化しているジェンダー規範を明確化したうえで、その語りに埋め込まれている暴力性を見極めていく読解は手堅い。細やかな言葉遣いや言い淀み、発話の遮断といったかたちでテクストに刻み込まれたさまざまな痕跡から、氏は「片腕」にとっての(「私」が見ようとはしない)〈真実〉を取り出してみせる。「痙攣」として現出する運動性を、幾重にも抑圧された状況のなかでなおも絞り出される微かな抵抗の声として聴き取る解釈の姿勢には刺激を受けた。質疑では、「私」(ないしはテクスト)の抱えるミソジニーの重みづけについて、とりわけ、1960年代のシュルレアリスムをめぐるコンテクストのなかで、本作から抵抗可能性を切り出すことの困難さが指摘された。そのうえで、抵抗の兆しを平板化してしまう語りの巧妙さにいかに抗うのか、その戦略性をめぐって議論が交わされた。なお、神山氏による本発表は既に活字化されているので(『昭和文学研究』第83集、2021年9月)、そちらも併せて参照されたい。
・藤原崇雅氏「武田泰淳「審判」論 上海現地資料による注釈の試み」
武田泰淳「審判」に描き込まれた戦後上海という舞台の歴史性をめぐって、当地の同時代資料に広く目を配りながら、その具体的な様相を明らかにしていく論考であった。これまでは資料不足もあって等閑に付される傾向が強かった本作の舞台設定について、その歴史的な背景を細かく読み込んでいく藤原氏の考察は極めて実証的であり、資料的価値を高く有するものである。作中人物である杉や二郎の動向について、氏は、それらが蔣介石派国民党による居留民管理政策を具体的な背景として措定できることを、資料に基づきながら指摘していく。上海当地の日本語新聞や国民党系のメディアほか、中国語文献も含めた多数の資料の博捜から作中の記述を肉づけしていく試みは、氏ならではの研究成果だろう。そのうえで、国民党による宣導政策と戦争責任問題のかかわりをめぐって、杉と二郎の形象を比較しながら分析が加えられた。戦時下における二郎の加害は、宣導の枠組みにおいては不問に付され、殺しの記憶と身体感覚は反復されながら戦後も残り続けていく。杉に見られる責任感覚の薄れと併せて、宣導政策が構造的に抱える問題領域の在処――人民の戦争責任の性急な解除と、それによる暴力性の無批判な温存――が、本作の記述を通して明らかにされた。質疑では、杉と二郎の両者における責任の内実の差異をより明確化する必要性が指摘された。さらに、二郎に出来する身体感覚をいかなる言葉で把捉するかという、免責が引き起こす問題により批評的に踏み込む読解の可能性が示された。また、引揚げ文学が抱える植民地主義の問題や戦後の無責任論への接続など、より広い問題意識のなかで本作の位置を問う見方についても議論がなされた。
・和田崇氏「一閃した小林園夫のプロレタリア詩:「てめえ」と「あいつ」と「俺達」」
現在ではほとんど知られていないプロレタリア詩人・小林園夫の伝記的事実と文学的営為に新たな光を当てる貴重な試みであった。1927~1929年頃という限られた時代の一齣にまさしく「一閃」した小林のプロレタリア詩をめぐって、当時の運動との関係やその詩的表現の特性などが明らかにされていく。同時に、消息不明の無名詩人として忘却されつつあった小林の伝記的事実についても、ドイツ語訳の存在などをはじめ、新たな発見が複数報告された。和田氏の調査は、現在おそらく最も詳細かつ網羅的な小林の作家紹介を可能にするものといえるだろう。そのうえで、小林の詩の歴史的な位置づけと分析が、特に詩の人称表現に着目しつつ行われた。同時代のプロレタリア詩の動向を代表するような形式性が看取される一方で、芸術大衆化論を先取りするような表現面での工夫など、小林の詩に独自の面もまた見出されたことは興味深い。さらに、ドイツ語への翻訳/アダプテーションについては、人称をめぐる語の変更から、より連帯感を強調するような効果が析出できることなどが指摘された。プロレタリア文学の国際連帯をめぐる氏の研究展望において、小林が担う位置取りの重要性を強く感じさせる分析であった。質疑では、詩のなかでの視点の切り替えなど、表現をより深く掘り下げていく論点や、小林の営為の出発点が匿名の投稿詩であったことの位置づけなどをめぐって議論が交わされた。また、同時代のプロレタリア文学運動の理論的枠組みとのかかわりにおいて、小林の詩をどのように評価することができるのか、検討が加えられた。
以上、3本の研究発表が行われ、白熱した議論が交わされました。
その後、『フェンスレス』第6号編集企画案打ち合わせが続けて行われました。
(文責・加藤大生)