後藤大介氏 サイズ7の占領――村上春樹「トニー滝谷」論――
後藤氏は、村上春樹「トニー滝谷」を取り上げ、占領の記憶を消費社会の直中において描き出した作品として考察する発表を行った。氏は本作が、父・滝谷省三郎と息子トニー滝谷の親子二代の物語を描いていることに注意深く目配りし、戦後の出来事を描きながら、語りの現在が一九八〇年代後半という消費社会的な要素が前面に出されていることに着目していた。その上で、消費社会における記憶の表象可能性/不可能性、記憶の分有の問題として「トニー滝谷」を読解する発表であった。
まず氏が提示したのは、省三郎のモデルと思われるトニー谷についての詳細な研究である。作品の中での滝谷省三郎という人物が、トニー谷という実在の人物の履歴とつき合わされることによって生じる人物解釈の深みから、本作を、大量消費社会(一九八〇年代)にあって、戦争や占領期の記憶を問題化する着眼点がより明確になったように思われる。さらに、大量消費社会における記号の消費と表象作用の問題が論じられた。そこで、「物」との遭遇をひとつの〈出来事〉と捉え、それを「生成経験」として意味づける考えを導入して、結末部を読解する発想は非常に示唆的であった。個人的にはここに欲望の問題を参入させて考えるとどのような観点が得られるか、と興味がわいた。
質疑応答も非常に盛り上がり、息苦しくなるシーンの多さについて、父子関係への着目、マルクス実在論の問題、妻の身体の問題等々、多くの論点が提示された。
加藤大生氏 享楽としての「敗北」――花田清輝「大秘事」論――
加藤氏は花田清輝「大秘事」における剣振丸の身振り「敗北主義」について、「敗北主義の哲学」が形成されていくありようについて、花田の非暴力思想との接続を図りつつ発表を行った。ここで重要なのは本発表が単に「敗北主義」の内実を明らかにすることを目的にしたものではなく、「敗北主義」の安易な一義化を回避し、「敗北主義」が形成されるプロセスを読解することに重きを置いている点である。
本作は「平曲」の大秘事のひとつ「剣の巻」から出発しているが、氏はまず多くの資料を横断しながら、「剣の巻」が武家政権台頭の合理化をその物語展開内に含みこんでいることを指摘した。その上で花田の企図が「剣の巻」の持つ武力=暴力中心主義の論理とは異なる論理を、当の「剣の巻」から立ち上げることであることを明らかにした。これは花田が支配階級/勝者によって語られた既成の歴史認識を、別様の物語や歴史認識として書き/読み換えようとした作家であるという、氏の一貫した研究成果からも明らかであろう。
次いで、剣振丸が賭博、曲芸、独り相撲へと変遷しながら実践を繰り返していく過程をつぶさに分析することで、暴力/対抗暴力の循環構造を切断する剣振丸の「敗北主義」が形成される道程が考察された。「敗北主義」の内容ではなく、それが形成されるプロセスこそが本発表において重要であったのは、「敗北主義」が、単に負けを目指す合理目的な論理ではなく、「敗北」へと至るプロセスそのものを享楽する精神の在り様と偶然性に主眼を置いた概念であったからであろう。
非常に刺激的な論考であった故か、質疑応答でも非常に活発な議論が交わされた。
八原瑠里氏 横光利一「青い大尉」試論――喪失と憂鬱――
八原氏は横光利一「青い大尉」を、同様の題材である父の死を描いた「青い石を拾つてから」との比較の中で論じる発表を行った。具体的には、同様の題材でありながら横光が「青い大尉」の方を新感覚派的な表現の例証とした点に着目し、そこから新感覚派文学たる強度がどこに依拠するのかを論じること、作品空間の地名を明記しないことにどのような意図や効果が生じているのかを論じることの二点を中心的な目的として据えた。
氏は緻密な比較から「青い石を拾つてから」に比べて「青い大尉」に描かれる登場人物が少なくなっていることを分析し、その理由を債鬼/債務者、「私」/「娘」という関係に物語を集中させる狙いがあったと分析した。また空間を抽象化し匿名化することによって、人間の心情と空間の影響関係に注目させる効果があることを論じた。
質疑応答では藤原氏、和田氏、高木氏、伊藤氏、中井氏等々手があがり、活発な議論が交わされた。横光利一の研究者が揃ったこともあり、非常に多角的な論点が提示されたという印象があり、改めて横光利一研究の活発な状況を窺い知ることができた。
研究発表の終了後、和田氏によって『フェンスレス』の特集企画について、また第五号『フェンスレス』の刊行についてなどの議題が投げかけられた。詳細はあらためてメンバーに連絡されるとのことである。
(文責:岩本知恵)