第28回 占領開拓期文化研究会 印象記(2018年3月25日:於同志社大学)

・奥村華子氏「語/騙られる炭鉱――井上光晴『虚構のクレーン』を中心に」

 長崎県崎戸炭鉱における朝鮮人労働者の差別問題。暗さとやりきれなさを描き出す本作に注目したことにまず価値ありだが、氏の報告が凡庸でなかったのは〈虚構〉という、可能性に満ちた領域への注目がなされた点にある。経歴詐称の疑いにさらされた作家・井上光晴の書きものを、実証主義的な真偽において裁くのでなはく、既存の真理性それ自体を問い直す新たなニセ=「語/騙」りとして定位する試みは、方法論として革新的だ。
 匂いをはじめとした労働者たちの身体的特徴が、異民族をヒエラルキー下層へと差異化する日本人の欲望をかりたてる過程も、本文より確認された。それを、悔恨共同体を基盤として安易に盛り上がりつつあったナショナリティに対する、戦中世代の批評として取り出した手つきに、鮮やかさがあった。炭鉱表象を継続的に研究されまた最近、在日朝鮮人による文学にも関心を広げておられる氏でなくては、成し得ない内容だったことは間違いない。
 作家情報についての詳細、方法論と作品内容のさらなる連絡、〈虚構〉として読む手がかりとなる引用箇所など、見取図を具体化せんとする方向の質問が、多くでた。個人的に頷いたのは、大西巨人と光晴の営為が似ているという指摘である。戦後において過去を振り返るなかで、実際の経験を超えた要素を混じえつつ、記憶や物語が構成されていくこと。ポスト真実という鍵語や、フェイクニュースの流行など、改めて真理性が問題にされる今日、新たなる〈虚構〉の領域の析出は、文学研究者が状況にコミットしていく確かな経路だと納得した。

・井上大佑氏「ゲストからキャストへ――筒井康隆「ベトナム観光公社」論」

 氏が積極的に言及されていたわけではないが、物語やその消費といった言葉が一時、批評を盛り上げたことを記憶される方も多いだろう。作家が読んだテレビ論を踏まえ、ベトナム戦争報道一連の言説を射程とした作品のアクチュアリティが析出された本発表は、実体的でないものが消費の欲望をあおりたてる、今日的な枠組がすでに六〇年代には高度な達成をみせていたことの証言としてあったように思う。筒井作品の系譜を熟知する氏らしく、消費の枠組からの逃走可能性をめぐって、後続の作品との書きわけが示されていた点も十分な作業量を感じさせた。
 ダニエル・J・ブーアスティン。氏はまず彼の社会学中の〈擬似イベント〉なる用語を丹念に読み込み、流行の新婚旅行先や人とは異なった〈面白さ〉を求める人物たちの興味のもちかたを、その影響下にある形象として定位された。丁寧な突合せ作業自体が先行論では看過されてきたようであり、僭越ながら発表者の真摯な姿勢を好もしく感じた。質疑に対する実直な氏の応答を通じて、そのような印象はさらに強まった。
 多様な角度からの質問があったが多くは、筒井の準備した枠組のなかで作品論を展開することが、作品を安易に消費してしまう姿勢に繋がってしまうことを危険視したものであった。先行論との異ならせ方に意識的であったし、報告の新規性が十分にあることはもちろんだが、そのうえで別の枠組からの見直しや、同時代の社会学者を超えていく指摘を期待する声が出た。南ベトナム大隊戦記をはじめとする言説の分析や、物語性を超える視覚的な刺激への欲望といった要素は、限られた時間のなかで捨象されていたとも思われたので、その盛り込みによって、論がさらに揺るぎないものになると確信した。

・伊藤純氏「"プロ運動資料集を読む会"のご紹介――山田清三郎アンケートを読む会第一回経過報告」

 今野賢三、加藤由蔵、中野正人、吉田金重、山川亮………。今となっては忘れられた、初期プロレタリア文学の担い手たち。運動史家・文学史家として著名な山田清三郎が1929年に実施したものの、公にされてこなかったアンケートが翻刻・紹介・分析された。『種蒔く人』や『新興文学』など雑誌を拠点として、ロシア10月革命に共振しつつ広がった〈大正労働文学〉、その書き手らが回答者である。その前年に蔵原惟人「プロレタリア・レアリズムへの道」が公にされ、主流は見えやすくなっていった。いまだ十分に明らかにされているとはいい難い前史の解明に、寄与する報告であった。
 昨年、丸善雄松堂より『昭和戦前期プロレタリア文化運動資料集』が刊行されたことは、本ブログでも以前に紹介しているが、アンケートはこの著作が編まれる過程で報告者の眼にとまったものである。1929年の実施と明記されているが、戦後に加筆された傍線の加筆もあることから、どう生成していったのか謎も多い。しかし「生地」「生年月日」といった基礎情報に加え、「略歴」「プロ文に入ってきた動機」「主な作品」がそれぞれの作家自身によって記されていることは、事実確認的な価値を軽く超えて、運動が歴史化されつつあったまさにそのとき、文学者たちが自らをどうそこに繰り入れようとしていた/していなかったかを明らかにする。スクリーンを使っての紹介もあったので、生資料ならではの雰囲気も存分に味わえた。たとえば、秋田雨雀の筆致は想像以上に神経質だ。
 『戦旗』/『文芸戦線』とそれ以前との世代間の確執や、清三郎がアンケートをとった理由など資料の基礎情報をめぐって、意見が交換された。一点ものの資料の扱い方に加え、その読み方の理想形が示された、興奮必須の報告であった。ただし、年度末ということもあってか、報告の内容に興味を持つであろうメンバーでやむなく出席できなかったものがいたのではなかろうか。なんらかのかたちで活字化され、資料として利用できるようになることを強く祈る。

・発表の終了後、会の今後についての報告がなされた。懇親会では議論の続きや、文学をめぐってのなごやかな歓談が交わされた。

                                                                     (文責:藤原崇雅)

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