第25回 占領開拓期文化研究会(2017年3月25日:於ウィングス京都)・印象記


八原瑠里氏「横光利一「頭ならびに腹」論」

 八原氏は、作品の舞台である「特別急行列車」の位相を、時刻表や料金表、停車駅についての同時代資料によって実証的に再現することで、それが「時間」「金銭」「人気」を問題化する装置として作中で機能していることを明らかにした。速度・運賃・群集心理に頓着しない「子僧」が結果的に受けとる「得」は、「特別急行列車」の記述に散りばめられた情報によって「目算」可能なのだという。
 そのようなテクスト構造を明らかにした点が、まずは八原氏の功績だと感じた。テクストの細部を接続し損得を「目算」するのは読者だとしても、そのように賦活されるべき細部を(たとえば駅名をイニシャルへと匿名化するなどして)あらかじめテクストに埋め込んだところに、「頭ならびに腹」の批評性がありうるとも思った。とすれば、その宛先はどこにあるのか。たとえばそれは、質疑でフロアから投げかけられたようなプロレタリア文学との接点にあるのかもしれない。


秋吉大輔氏「『高3コース』『高1コース』における詩行為──寺山修司の「文芸」欄」」

 秋吉氏は、寺山修司が受験雑誌で担当した文芸欄が、『凶区』に代表される同時代詩壇への批評的な「場」として機能していたことを明らかにした。寺山が「構成」するその「場」には、「書きたいことを書く」という投稿者の私的な欲望にもとづいた「行為としての詩」(詩行為)が交錯している。あるいは擦れ違い、衝突している。その多声的な雑踏が、主体を非人称化する戦後詩の共同体的空間を相対化していたのだという。
 のちに『ハイティーン詩集』や天井桟敷の「書を捨てよ、町へ出よう」へと展開していくこの寺山の文芸欄の批評性を原理的に導出したクリアな発表だと感じた。個人的にも強い刺激を受けた。聴いているあいだ、ミシェル・ド・セルトーの言葉が響いていた。「歩く行為(アクト・ド・マルシエ)の都市システムにたいする関係は、発話行為(speech act)が(ママ)言語(ラング)や言い終えられた発語にたいする関係にひとしい」(『日常的実践のポイエティーク』)。セルトーの言う「足どりの話し声」を、誌上で「場」として「構成」(寺山)することの可能性と限界を考えさせられた。


藤原崇雅氏「武田泰淳『風媒花』論──J-P・サルトル『自由への道』の影響をめぐって──」

 藤原氏は、武田泰淳『風媒花』のサルトルからの影響を掘り下げた。従来、『風媒花』の非統一的な作品構成は、サルトルの「神の視点(観点)の過誤」理論からの影響が指摘されてきた。しかし藤原氏によれば、同時代においてはサルトルの『自由への道』から影響を受けたものとしても読まれていたという。その具体相を藤原氏は、ジュネットの理論を援用しつつ本文の比較を通して検証した。
 物語内容と物語言説の進行の等速性。また、そのリアルスピードの個人的時間を多視点的に並走させる複数性。『風媒花』と『自由への道』に共通するこうした特性を、膨大な本文引用をもとに闡明し、かつその等速性や複数性が、個人を単線へと回収する同時代のイデオロギーに批評性を持ちえたことを明らかにした。そこに、藤原論の手堅さと鋭さがあると感じた。質疑では、そもそも『風媒花』執筆時点で泰淳自身がどの程度までサルトルの『自由への道』を意識していたかを問う声もあった。


泉谷瞬氏「皆川博子「トマト・ゲーム」論」

 泉谷氏は、皆川博子「トマト・ゲーム」を精緻に読解することで、同時代の規範的なジェンダーやセクシュアリティ、権力構造への射程を明らかにした。第二次世界大戦後の占領期における米軍基地内という舞台設定や、その内部の多層的な人間関係は、占領者/被占領者、米軍/日本人、男性/女性、強者/弱者、加害者/被害者といった単純な二項対立をことごとく転覆させ、それらを複数の可能性へと引き戻しているのだという。
 泉谷論のアクチュアリティは、やはりジェンダーやセクシュアリティの問題系に戦後の日米関係を輻輳させて論じた点にあると感じた。作中で先に語られた、現在時間における梨枝を中心とした男性同士のホモソーシャルな関係性。そこに、米軍との権力関係が重なり、極端に複雑化・歪曲化されたかたちで、過去の米軍基地内の人間関係が描かれている。──そうしたテクスト構造がそのまま、従来論じられてきたホモソーシャルの図式をアップデートしようとする泉谷氏の立場と重なるところに、この発表の現在性を感じた。

(執筆:高木彬)

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