2016年12月27日、立命館大学において、第24回研究会が開催されました。
今回は2件の研究発表と、1件の合評会が行われました。
以下にその様子をご報告致します。

【研究発表1】
 小玉健志郎「田沢稲舟「唯我独尊」論」

 小玉氏は、これまでの研究でプラトニックな愛の成就が描かれていると読まれてきた本作に対して、紫子・伯爵・柳田といった作中人物のそれぞれが担う価値観を当時の恋愛論の中に置きなおしてみた際、従来とは違った読み方とは違って近代的恋愛観の問題を指摘したものとして読むことが可能になるのではないか、という問題提起を行った。 

 質疑では、作品内容の解釈についての妥当性や、そもそもこの作品は近代的恋愛観を問題としているのだろうかという疑問、バーバラ・スタフォード『ボディ・クリティシズム』をあげながら、女性の隠された内面を暴くという物語の内容が、まさに文字通り手術によって女性身体を切り開らくことによって取り出されようとすることに注目した指摘などがあった。

 小玉氏は、構想としてはこの作品と泉鏡花「外科室」との対比を考えていたが、今回の発表ではそこまで手が回らなかったということである。発表の中でも「外科室」の読みを前提としていると思われるものもあり、そこがやや発表者の意図を分かりにくくしている点もあったかと思われるので、今後の展開に期待したい。

【研究発表2】
 坂堅太「戦後アヴァンギャルドのみた大衆社会 ―「記録芸術の会」の〈大衆〉観について―」

 坂氏は、〈運動体〉としては低調であったと評価されることの多い「記録芸術の会」について、運動として成功したかどうかという観点からではなく、彼等がどのような状況認識に立ち、何を目指していたのかを考えたい、という目的をもって発表された。

 会が活動していた時期は週刊誌の創刊やテレビ放送の本格化など、マスメディアが社会をおおいつくそうとしていた時期であり、「記録芸術の会」はそうしたメディア状況の転換に極めて意識的であり、なおかつそうした状況を積極的に評価していた点を指摘された。だが会が解散した後にはメンバーの一人佐々木基一が深い失望を語っている。こうした転換の意味を考えていきたいということだった。

 質疑としては安部公房のモダンマルクス主義者の側面を指摘する声や、機械や技術を肯定的に評価し積極的に取り入れていったという点で戦前の新感覚派のスタンスとの相違を問うものなどがあった。

【合評会】
 坂堅太著『安部公房と「日本」植民地/占領経験とナショナリズム』
 (聞き手)岩本知恵、内藤由直 (著者)坂堅太

 ここではコメンテーターの指摘や著者の応答、会場からの質疑を中心にまとめることとする。まず本書に対して、60年代以降の安部公房にもとづくと見えにくかった50年代の安部のナショナリズムの問題に明快な見取り図を描いたものとしてその価値が強調された。その上でこの安部の「新しいナショナリズム」をめぐって多くの議論が交わされた。

 まず著者は60年以降のナショナリズム批判に転じたあとも、「新しいナショナリズム」を主張していたときと求めるものは基本的に変わっていないのではないか、としていたが、それは果して「ナショナリズム」と言えるのだろうかという語の選択の問題や、ナショナリズムに区別はありえるのか、安部の姿勢はそうであったとして、論者はそれをどのように評価しているのか、本書はあくまで50年代に留まって論じているが、これはその後の活動をどのように読みかえることにつながっていくのか、といった指摘があった。

 他にもなぜ安部は共産党に入党するとき所感派(主流派)を選んだのか、という問いに、明確にこうだと答えるのは難しいが、あの当時ナショナリズムの問題に取り組むなら主流派という選択しかなかっただろうという考えが示された。それほどまでにナショナリズムの問題が当時の安部公房にとって大きなものであったということであろう。

 この他にもこれまで戦前のプロレタリア文学研究に集中していた〈政治と文学〉の問題に新たな光を当て、安部公房の方法がこの問題を考えるうえで有効な視座を与えてくれる点を明らかにしたことなど、ナショナリズム以外の論点も多数提出されていたことを申し添えておきたい。


 また、遠方より金野文彦氏がお越しになり、様々なご指摘をいただいたことで議論がいつも以上に活発なものとなった。金野さん、ご参加いただきありがとうございました。

                                                 (文責 池田啓悟)

トラックバック:

トラックバック URL:http://senryokaitakukibunka.blog.fc2.com/tb.php/100-954ab7f2