第26回占領開拓文化研究会印象記(2017年8月27日 於同志社大学)
坂崎恭平「永井荷風『冷笑』論――プレテクストの検討を手がかりとして――」
坂崎氏は永井荷風『冷笑』に引用されている諸作品から丹念に作品の位置を再度設定していく発表だった。『冷笑』にはモーパッサン「蝿」、瀧亭鯉丈『花暦八笑人』が枠として設定されており、仲間たちと世俗を離れて遊楽するという物語の構造が自己言及されている。しかし、『冷笑』においては、八人の仲間は集まらず、その構造が宙吊りにされ、その失敗こそが滑稽味のある成功であるという逆説が呈示されていると坂崎氏は言う。また、『冷笑』にはモリス・バレス、ピエール・ロティなどが引用されており、恋愛を描いたものよりはそれより深い、民族心の自覚につながる風景や人物に対する感動が重要視されていると言う。ここには当時のグスタフ・フレンセンに代表されるポスト自然主義としての郷土芸術の側面があり、作中の江戸趣味は地方色や宗教色を脱色した郷土芸術に可能性を見出したものだったと論じる。『冷笑』は荷風の『ふらんす物語』、『あめりか物語』などに比較して酷評を受けたが、これまでのハイカラ趣味の荷風から、西洋のポスト自然主義文学の理論によって自然主義文壇のヘゲモニーに決別を表したものだったのではないかと最終的に論じられた。
地方色については、田山花袋や『文章世界』の投稿者などの自然主義としてのイメージが強かったが、むしろ丹念に西洋文壇の当時の様相を追っていくとポスト自然主義芸術の流れであるとする発表は清新だった。また、強固な都市的ハビトゥスの重層化によって洗練された江戸文化を荷風が芸術理論にまで高めるために、どのような論法を駆使していたのか、興味深く聞いた。
伊藤純「「物語」と「読者」を繋ぐものについての考察 中野重治「春さきの風」、小林多喜二「テガミ」、村上春樹「蛍」から」
伊藤氏は現代においても「春さきの風」への言及が少なくないと述べ、大江健三郎の反原発の演説、『沖縄タイムス』の社説などで「わたしらは屈辱のなかに生きています」という言葉が引用されていることに注目する。結論として労働運動の弾圧というものを「春さきの風」は描きながらも、乳児を放置する母親という描き方には、当時プロレタリア文学全体の中にあったジェンダー不均衡と男性中心からのものの見方が内在化されており、演説などで引用される場合には、このような部分はそぎ落とされているのではないかと論じている。
小林多喜二「テガミ」については、当時の壁小説という目新しいメディア性に注目が集まったことにふれ、しかし同時に「テガミ」に描かれた絶対的窮乏というものは読者に訴えかける力をもう持っていないのではないかと論じる。また、壁小説というものも『中央公論』などのメディアに載せられた場合のみ残っているのであり、その実在の確認については研究不足ではないかと述べられている。
村上春樹「蛍」に関しては、『ノルウェイの森』の簡易版であり、短編であるだけてっとり早く、切ない恋物語の抒情にひたることができる小説であると総論している。その上で、「蛍」のヒロインの「彼女」は非定型うつ病の典型として描かれており、大人の社会に適応できない未熟さを悲しい恋を盛り上げるために設定されていると論じる。我々が哺乳動物である限り、ネオテニー的な造形の適応戦略に惹かれざるを得ず、そのために村上春樹は広い読者を得たと最終的に結論している。
質問では『ノルウェイの森』は同時代的にはそもそも内容は読まれておらず、恋人同士のプレゼントとしてベストセラーになったとの指摘がなされた。個人的にも現代に流通する物語はどのようなものが効力を持ち得るのか興味深く聞いた。
中井祐希「横光利一「厨房日記」論」
中井氏の発表は、横光利一「厨房日記」を「日本的なもの」ではなく、もっと細かな「民族」、「知性」、「知識人」、「論理」などのキーワードから読み解いていこうと言う試みであった。作中の梶は西洋旅行でツァラなどの知識人と出会っており、彼らがマルクス主義的なものに共感を示すのに対し、日本語の怒声が犬の鳴き声を止めたことを面白がる。梶は超現実ではなく、思想が現実生活に根を下ろさないと意味がないと考えているのではないか、と中井氏は論じている。
梶は西洋文明の戦中の混迷を知っており、それ故に「今ここにないもの」としての西洋近代化の目標がわからなくなっている。梶を「今・ここ」に立ち返らせるのは、芳江の触れた肌であった。日本人の肉体には日本人特有の知性もまた存在しているのであり、そこに立脚することを梶は求めている。「頭」(思想・認識)と「足」(生活・身体感覚)は連動しなければならないと梶は考えており、中井氏はそれによって知識人の苦悶を解決しようとしているのだと最終的に論じている。
質問者からは、この当時の「故郷喪失」と「日本的なもの」の回復は、スターリニズムの裏返しであり、転向者が打ち立てていった理論ではないか、という声も聞かれた。1930年代の文学、思想を概括するものとして、横光へのマルクス主義への影響なども活発に議論され、これからの研究が大変期待されると考える。
加藤大生「<パン・フォーカス>の歴史認識――花田清輝「画人伝」論」
加藤氏は、花田清輝「画人伝」に描かれた忠阿弥という虚構の作家の画論の体裁をとって提出される花田の歴史認識の内実を検討した。花田は忠阿弥を武家出身の画家と仮構しており、殺気の漂う画風から突然の発心の瞬間を描いたと論じる。そして、花田は将軍足利義教の暴君説への否定のために忠阿弥の画論を使っていく。加藤氏はそこには「殺すもののセンスを清算して、生かすもののセンスをわがものに」していく非暴力主義の伝統の追求があったと論じる。
花田は農民一揆を生産の放棄と捉えており、ストライキになぞらえ、非暴力的な積極行動として、暴力論を援用しながら、平和主義の立場をとる。このような花田の立場には、戦後歴史学において、「個人の日常生活史」に焦点を当てた『人物叢書』シリーズが影響していたと加藤氏は指摘する。最後に花田はパン・フォーカスの視点を歴史認識として主張するのであるが、加藤氏はそこに観客の参加を促すより能動的なアヴァンギャルド芸術の視覚を論じていた。
質問者からは、歴史学としての大衆史にどれだけ花田が漸近していたのかという質問や、モンタージュなどの他の映像理論においても観客の参加を促すものであったのではないかという質問が出、活発な議論がなされた。花田の理論は前衛の理論にも共鳴しており、それの読解はこれからの研究が期待されると考える。
(文責・広島大学大学院文学研究科D3萬田慶太)
第25回 占領開拓期文化研究会(2017年3月25日:於ウィングス京都)・印象記
八原瑠里氏「横光利一「頭ならびに腹」論」
八原氏は、作品の舞台である「特別急行列車」の位相を、時刻表や料金表、停車駅についての同時代資料によって実証的に再現することで、それが「時間」「金銭」「人気」を問題化する装置として作中で機能していることを明らかにした。速度・運賃・群集心理に頓着しない「子僧」が結果的に受けとる「得」は、「特別急行列車」の記述に散りばめられた情報によって「目算」可能なのだという。
そのようなテクスト構造を明らかにした点が、まずは八原氏の功績だと感じた。テクストの細部を接続し損得を「目算」するのは読者だとしても、そのように賦活されるべき細部を(たとえば駅名をイニシャルへと匿名化するなどして)あらかじめテクストに埋め込んだところに、「頭ならびに腹」の批評性がありうるとも思った。とすれば、その宛先はどこにあるのか。たとえばそれは、質疑でフロアから投げかけられたようなプロレタリア文学との接点にあるのかもしれない。
秋吉大輔氏「『高3コース』『高1コース』における詩行為──寺山修司の「文芸」欄」」
秋吉氏は、寺山修司が受験雑誌で担当した文芸欄が、『凶区』に代表される同時代詩壇への批評的な「場」として機能していたことを明らかにした。寺山が「構成」するその「場」には、「書きたいことを書く」という投稿者の私的な欲望にもとづいた「行為としての詩」(詩行為)が交錯している。あるいは擦れ違い、衝突している。その多声的な雑踏が、主体を非人称化する戦後詩の共同体的空間を相対化していたのだという。
のちに『ハイティーン詩集』や天井桟敷の「書を捨てよ、町へ出よう」へと展開していくこの寺山の文芸欄の批評性を原理的に導出したクリアな発表だと感じた。個人的にも強い刺激を受けた。聴いているあいだ、ミシェル・ド・セルトーの言葉が響いていた。「歩く行為(アクト・ド・マルシエ)の都市システムにたいする関係は、発話行為(speech act)が(ママ)言語(ラング)や言い終えられた発語にたいする関係にひとしい」(『日常的実践のポイエティーク』)。セルトーの言う「足どりの話し声」を、誌上で「場」として「構成」(寺山)することの可能性と限界を考えさせられた。
藤原崇雅氏「武田泰淳『風媒花』論──J-P・サルトル『自由への道』の影響をめぐって──」
藤原氏は、武田泰淳『風媒花』のサルトルからの影響を掘り下げた。従来、『風媒花』の非統一的な作品構成は、サルトルの「神の視点(観点)の過誤」理論からの影響が指摘されてきた。しかし藤原氏によれば、同時代においてはサルトルの『自由への道』から影響を受けたものとしても読まれていたという。その具体相を藤原氏は、ジュネットの理論を援用しつつ本文の比較を通して検証した。
物語内容と物語言説の進行の等速性。また、そのリアルスピードの個人的時間を多視点的に並走させる複数性。『風媒花』と『自由への道』に共通するこうした特性を、膨大な本文引用をもとに闡明し、かつその等速性や複数性が、個人を単線へと回収する同時代のイデオロギーに批評性を持ちえたことを明らかにした。そこに、藤原論の手堅さと鋭さがあると感じた。質疑では、そもそも『風媒花』執筆時点で泰淳自身がどの程度までサルトルの『自由への道』を意識していたかを問う声もあった。
泉谷瞬氏「皆川博子「トマト・ゲーム」論」
泉谷氏は、皆川博子「トマト・ゲーム」を精緻に読解することで、同時代の規範的なジェンダーやセクシュアリティ、権力構造への射程を明らかにした。第二次世界大戦後の占領期における米軍基地内という舞台設定や、その内部の多層的な人間関係は、占領者/被占領者、米軍/日本人、男性/女性、強者/弱者、加害者/被害者といった単純な二項対立をことごとく転覆させ、それらを複数の可能性へと引き戻しているのだという。
泉谷論のアクチュアリティは、やはりジェンダーやセクシュアリティの問題系に戦後の日米関係を輻輳させて論じた点にあると感じた。作中で先に語られた、現在時間における梨枝を中心とした男性同士のホモソーシャルな関係性。そこに、米軍との権力関係が重なり、極端に複雑化・歪曲化されたかたちで、過去の米軍基地内の人間関係が描かれている。──そうしたテクスト構造がそのまま、従来論じられてきたホモソーシャルの図式をアップデートしようとする泉谷氏の立場と重なるところに、この発表の現在性を感じた。
(執筆:高木彬)
2016年12月27日、立命館大学において、第24回研究会が開催されました。
今回は2件の研究発表と、1件の合評会が行われました。
以下にその様子をご報告致します。
【研究発表1】
小玉健志郎「田沢稲舟「唯我独尊」論」
小玉氏は、これまでの研究でプラトニックな愛の成就が描かれていると読まれてきた本作に対して、紫子・伯爵・柳田といった作中人物のそれぞれが担う価値観を当時の恋愛論の中に置きなおしてみた際、従来とは違った読み方とは違って近代的恋愛観の問題を指摘したものとして読むことが可能になるのではないか、という問題提起を行った。
質疑では、作品内容の解釈についての妥当性や、そもそもこの作品は近代的恋愛観を問題としているのだろうかという疑問、バーバラ・スタフォード『ボディ・クリティシズム』をあげながら、女性の隠された内面を暴くという物語の内容が、まさに文字通り手術によって女性身体を切り開らくことによって取り出されようとすることに注目した指摘などがあった。
小玉氏は、構想としてはこの作品と泉鏡花「外科室」との対比を考えていたが、今回の発表ではそこまで手が回らなかったということである。発表の中でも「外科室」の読みを前提としていると思われるものもあり、そこがやや発表者の意図を分かりにくくしている点もあったかと思われるので、今後の展開に期待したい。
【研究発表2】
坂堅太「戦後アヴァンギャルドのみた大衆社会 ―「記録芸術の会」の〈大衆〉観について―」
坂氏は、〈運動体〉としては低調であったと評価されることの多い「記録芸術の会」について、運動として成功したかどうかという観点からではなく、彼等がどのような状況認識に立ち、何を目指していたのかを考えたい、という目的をもって発表された。
会が活動していた時期は週刊誌の創刊やテレビ放送の本格化など、マスメディアが社会をおおいつくそうとしていた時期であり、「記録芸術の会」はそうしたメディア状況の転換に極めて意識的であり、なおかつそうした状況を積極的に評価していた点を指摘された。だが会が解散した後にはメンバーの一人佐々木基一が深い失望を語っている。こうした転換の意味を考えていきたいということだった。
質疑としては安部公房のモダンマルクス主義者の側面を指摘する声や、機械や技術を肯定的に評価し積極的に取り入れていったという点で戦前の新感覚派のスタンスとの相違を問うものなどがあった。
【合評会】
坂堅太著『安部公房と「日本」植民地/占領経験とナショナリズム』
(聞き手)岩本知恵、内藤由直 (著者)坂堅太
ここではコメンテーターの指摘や著者の応答、会場からの質疑を中心にまとめることとする。まず本書に対して、60年代以降の安部公房にもとづくと見えにくかった50年代の安部のナショナリズムの問題に明快な見取り図を描いたものとしてその価値が強調された。その上でこの安部の「新しいナショナリズム」をめぐって多くの議論が交わされた。
まず著者は60年以降のナショナリズム批判に転じたあとも、「新しいナショナリズム」を主張していたときと求めるものは基本的に変わっていないのではないか、としていたが、それは果して「ナショナリズム」と言えるのだろうかという語の選択の問題や、ナショナリズムに区別はありえるのか、安部の姿勢はそうであったとして、論者はそれをどのように評価しているのか、本書はあくまで50年代に留まって論じているが、これはその後の活動をどのように読みかえることにつながっていくのか、といった指摘があった。
他にもなぜ安部は共産党に入党するとき所感派(主流派)を選んだのか、という問いに、明確にこうだと答えるのは難しいが、あの当時ナショナリズムの問題に取り組むなら主流派という選択しかなかっただろうという考えが示された。それほどまでにナショナリズムの問題が当時の安部公房にとって大きなものであったということであろう。
この他にもこれまで戦前のプロレタリア文学研究に集中していた〈政治と文学〉の問題に新たな光を当て、安部公房の方法がこの問題を考えるうえで有効な視座を与えてくれる点を明らかにしたことなど、ナショナリズム以外の論点も多数提出されていたことを申し添えておきたい。
また、遠方より金野文彦氏がお越しになり、様々なご指摘をいただいたことで議論がいつも以上に活発なものとなった。金野さん、ご参加いただきありがとうございました。
(文責 池田啓悟)
2016年3月13日、立命館大学において、第22回研究会が開催されました。
今回は2件の研究発表と、同じく2件の合評会が行われました。
以下にその様子をご報告致します。
・研究発表1
奥村華子氏「労働とエネルギー 鉱山/汽車/海上―坑内から〈外の世界〉へ―」
炭鉱労働者がプロレタリアートとして編成される際に起こる運動全体への影響を、「エネルギー」を視座に考究する報告であった。本発表では、直接配付制という特徴を有し、読者共同体が強く意識されていた『戦旗』を主な例として、そこに発表された三つのテクストが横断的に考察された。氏はまず、秀島武「汽車の中で」から、労働者の団結を物理的なレベルで可能ならしめるものとしての「汽車」に着目する。石炭という「エネルギー」の大量輸送手段でもある鉄道は、また、松田解子「風呂場事件」においても、その存在を強調的に看取できる。閉鎖的な労働の場である鉱山において、鉄道が「外の世界」との接続を象徴的に表出するものだという指摘は重要であろう。加えて、鉱山と同様、外地から隔たった特殊な労働環境である海上労働について、森山啓「年寄つた水夫」をもとに分析がなされる。海上労働や炭鉱労働は日常的に死と隣り合わせの状態にあり、そうした現場で働く労働者を、氏は運動において闘争の前衛に立つ存在として位置づけておられた。質疑では、プロレタリア文学内における労働の階層性や、『戦旗』の提唱する理論と実際のテクストとの差異をいかに評価するか、という点について議論が交わされた。「エネルギー」という観点から闘争のありようを動的に把捉していく、刺激的な論考であった。
・研究発表2
藤原崇雅氏「武田泰淳「うつし絵」における兪平伯」
数多くの中国小説を残した武田泰淳が、特に親炙していた文学者・兪平伯に材を取った作品である「うつし絵」から、作家の企図を析出する試みであった。兪の随筆集に基づくかたちで構成された本作について、氏は典拠との比較を緻密に行う。さまざまな翻案によって、作中のユウ氏は皇帝と対蹠的な関係に布置されていることを、氏の調査は明確化した。しかし、物語はユウ氏と皇帝を徐々に重ね合わせてゆく。そこからは、「想像的な転倒」によって弱者を暴力的に加害してしまう「皇帝心理」が、皇帝からは最も遠いと考えられていたユウ氏の中にも萌芽しうる、そのありようが看取される。非人道的な振る舞いが、個人の人格や思想によって行われるのではなく、環境や制度によって発動するという暴力の構造を、泰淳は本作を通して表現している。兪平伯を、そうした暴力への思惟を泰淳にもたらす触媒として見る氏の論考は、極めて興味深いものであろう。本発表に対して、作中に登場する女性をどのように位置づけるのか、また、氏が抽出した暴力の構造をいかに理論化するかといった点を中心に質疑応答がなされた。比較的言及のなされていない泰淳の中国小説に対する氏の意欲的な取り組みは、泰淳研究の新たな地平を拓くものとして意義深いものである。
・合評会1
池田啓悟著『宮本百合子における女性労働と政治』を書き終えて
鳥木圭太氏・萬田慶太氏(聞き手)、池田啓悟氏(著者)
池田啓悟氏の著書『宮本百合子における女性労働と政治――一九三〇年代プロレタリア文学運動の一断面――』(風間書房、2015年)についての合評会である。著者は、百合子がいかにしてプロレタリア作家になったのか、という問いに出発して、百合子のプロレタリア文学運動期から戦後に到るまでの諸作品を論じることで、そこに描きこまれた女性を取り巻く問題群と、プロレタリア文学運動の要請する理論との間にある矛盾を析出していく。本書について、フェミニズムおよびジェンダー理論への直接的言及があまり見られないのはどのような意図によるものなのか、また、百合子という作者主体および語り手の位相とその階層性をどのように処理するのか、という点を中心に議論が交わされた。また、著者が本書によって立ち上げようとした百合子の作家イメージについても、それをより具体的に掘り下げるような質問が提出された。百合子作品の中に残されている数々の矛盾を精緻に辿り、それを契機にテクストの読み直しをはかる池田氏の実践は警抜なものであり、合評会では上記のほかにも、会場全体で盛んな意見交換が行われたと記憶している。
・合評会2
禧美智章著『アニメーションの想像力』の著者に聞く
水川敬章氏・雨宮幸明氏(聞き手)、禧美智章氏(著者)
禧美智章氏の著書『アニメーションの想像力――文字テクスト/映像テクストの想像力の往還――』(風間書房、2015年)についての合評会である。本書では、戦前の初期アニメーションである『煙突屋ペロー』から、泉鏡花「天守物語」や宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、また押井守の諸作品などを題材に、文学・映画・アニメーションの多岐にわたる媒体を通じて往還的に伝播していく「想像力」の問題が論じられている。押井の発想やドゥルーズの「時間イメージ」を援用して、著者は映像テクストを「読む」際に要請される、観客側の能動的な「想像力」の駆使に着目する。この「想像力」という表現、また本書におけるその用法をめぐって、質疑では集中的に議論が展開された。また、アニメーションや映画といった共同制作による作品を取り扱う際に、制作者側の作者主体をどのように処理するのかという点も議論の俎上に載った。論者の主体をいかに位置づけるかという問題は文学研究のみにとどまるものではなく、そうした根底的な問い直しをも提起せしめる禧美氏の多角的な論考は、啓発的なものとして実感された次第である。
その後、懇親会場に席を移し、発表者を囲んでなごやかな歓談が交わされました。
(文責・加藤大生)
2015年12月27日、立命館大学において、第21回研究会が開催されました。
5件の研究発表が行われましたので、以下その様子をご報告致します。
・小玉健志郎氏「田沢稲舟「小町湯」考」
田沢稲舟は、山田美妙との関わりなどで知られる明治期の閨秀作家である。本発表では、画師を志す青年が「湯屋」の番頭となり、婦人を観察して裸体画を描くという物語内容をもつ対象作品を、発表当時の女性美をめぐる言説や、明治20年代の裸体画論争を参照しつつ分析された。「小町湯」は物語の末尾において、青年の描いた裸体画が美術展覧会にて高い評価を受けるが、その裸体画の形象が、同時代における「美人」概念から差異化されたものであるという作品解釈は、これまでの稲舟研究を更新するものだろう。また、美妙「胡蝶」や黒田清輝「朝粧」をめぐる論争は先行論においてよく整理されてきたが、それら論争が示すところの裸体をめぐる認識の枠組の変容が、同時代の小説作品においていかに表象されたのかという点からしても、興味深い発表であったと感じられた。質疑応答の際に提出された、本作が女性作家によって書かれたことをどのように捉えるのかという意見や、出展された画が外国人によって買い上げられたことをどう解釈するのかといった点については今後応えていく必要があると思われるが、しかしながら、田沢稲舟という文学者の作家研究にはとどまらない射程を有した報告であったように思う。
・矢口貢大氏「愚痴をこぼす坑夫たち――宮嶋資夫『坑夫』論」
プロレタリア文学萌芽期の書き手として知られる宮嶋資夫の代表作『坑夫』を、氏が継続的に考究される「愚痴の文学史」の観点から捉え直された。先行する『坑夫』研究では、登場人物・石井の抵抗が注目される一方で、愚痴をこぼす他の坑夫たちの位置づけが捨象されてきた。氏の問題設定により、石井以外の坑夫らの存在が前景化されたことは意義深い。また、本作における登場人物間の対立が、直接行動を掲げたアナーキストたちと、穏当な社会主義者が袂を分かった思想状況と重ねて読めるという指摘は刺激的なものであった。質疑では、茨城県・高取鉱山に職員として勤めていた作者の体験と作品生成の関わりや、同時代状況を整理する際、組合組織に至らない労働運動を行った田中正造のような立場に眼を向ける必要はないのか、といった議論が交わされた。なお氏は、これまで近松秋江などの私小説作家を対象とした論考を発表されている。明言こそされなかったものの、今回の発表を聴いて、一般的に離れたジャンルとして位置づけられるプロレタリア文学と私小説とが、「愚痴」という鍵語のもとに連絡していく可能性のあることに気づかされた。
・伊藤純氏「プロレタリア文化運動と三二年テーゼ――『昭和前期プロレタリア文化運動資料集成』から」
大原社会問題研究所などに所蔵されている資料をデータ化し、現在『昭和前期プロレタリア文化運動資料集成』が作成されつつある。今回の報告はその作成に携わられている氏が、集成に収録予定の資料を批判的に検討されるものであった。中心的に取り上げられたのは、1933年築地小劇場にて行われた、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の第六回大会中央委員会の報告である。報告は、たとえば資本主義の危機とソ連の素晴らしさの対比といった定型的表現に満ちているが、そのような表現は前年『赤旗』紙上に公表された三二年テーゼが源泉となっている。氏はそのことを指摘された上で、威勢のいい文章を発表していたそれら同盟が実際には機能を停止させていたこと、しかしながらプロレタリア文学者たちはその後重要な長篇作品を多く発表していったことを、貴司山治日記などを参照しつつ詳らかにされた。今回の考察を聴き、同集成の刊行によって、プロレタリア文化運動研究は飛躍的に前進することを確信した次第である。なお、質義の際には、三二年テーゼがどの程度二七年テーゼを意識していたのかといった質問や、テーゼが創作理論としては役に立たなかったのではという意見が寄せられた。
・内藤由直氏「安部公房「闖入者」と〈新〉植民地主義」
アメリカ占領軍による民主主義の押し付けとして考察されてきた「闖入者」を、西川長夫言うところの〈新〉殖民地主義が現実化した昨今の状況の寓話として解釈する刺激的な議論であった。「闖入者」において住居を占拠する一家とKの対立を、単なる支配―被支配の関係ではなく、支配―被支配関係の内部において入れ子型に構造化されている搾取の構造(沖縄への基地の集中が正当化されている現状)だとしたところに、氏の卓見はあろう。なお、同時代言説という言葉が相当に流布しているように、近年の文学研究は、作品の射程を発表当時に限定することが暗黙のルールとなっているが、そのような動向に対する力強い批評を本発表から感じた。質義の際には、問題提起がもう少し作品本文に即したものであるべきだといった意見や、対象作品として戯曲形式の「友達」ではなく小説作品である「闖入者」を選んだ理由についての質問が寄せられた。私見としては、安部が高度に抽象的な方法を用いて作品を書いたこと自体に歴史性を看取できないのかという疑問は残ったが、しかしながら新たな解釈や資料の提示だけではなく、研究手法の刷新さえ予感させた本発表に対して、聴衆からは肯定的な意見の多かったことをここに記しておきたい。
・安藤陽平氏「安岡章太郎「月は東に」試論」
同時代評や解説の類いは残されているものの、これまで詳細な分析の試みられてこなかった長篇『月は東に』を読み直す報告であった。氏はまず、安岡自身の自注や作品の冒頭場面において、通用している時間への疑念が提示されていることに着目された。その上で、李孝徳の国家的時間/個人的時間という概念を手がかりとして、日本という国民国家において共有される「戦後」という枠組から零れ落ちる個人的記憶の領域を開示する論証が行われ、この手続きは極めて説得的であった。ただ、時間概念の整理の際、現実/架空という対立項が援用されたが、両時間の対立は事実性によっているのではなく、むしろ仮構性によって基礎づけられている(想像されている時間/うまく想像しえない時間)ように思われるが、これは愚考かもしれない。また、質義の際に提出された、時間の要素が作中の空間的要素――日本とアメリカ――とどのように交錯するのかという意見は、重要な指摘であると感じた。なお、今回の発表が一部の作品に論考が偏っている安岡研究の現状に、新風を吹き込むものであったことは言うまでもない。
その後、懇親会場に席を移し、発表者を囲んでなごやかな歓談が交わされました。
(文責・藤原崇雅)
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