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昭和戦前期プロレタリア文化運動資料研究会編
『昭和戦前期プロレタリア文化運動資料集』 丸善雄松堂 2017年10月
(編著者:足立元、雨宮幸明、池田啓悟、泉谷瞬、伊藤純、浦西和彦、鴨川都美、白井かおり、武田悠希、立本紘之、玉川薫、鳥木圭太、内藤由直、中川成美(代表)、正木喜勝、村田裕和、和田崇)


1920~40年代に発行、作成、配布、発信されたプロレタリア文化運動・左翼演劇に関する膨大な資料約3000点をデジタル化、9分類して検索と閲覧を可能にした。

国内4か所に散在する資料群(浦西和彦先生蒐集資料・小樽文学館所蔵 池田寿夫旧蔵資料・法政大学大原社会問題研究所資料・札幌大学所蔵 松本克平旧蔵資料)を収録し、関連資料をほぼ網羅している。

大阪・京都・神戸・名古屋など関連地域を都道府県別で検索することができ、地方文化運動の様相が初めて明らかとなる。
ビラ、チラシ、ニュース、檄文、パンフレット、ガリ版刷りの稀少雑誌、色鮮やかなミニポスター。失われやすい貴重資料を集成し、ここに勃興する大衆のエネルギーがよみがえる。

【URL】https://myrp.maruzen.co.jp/book/proletarian_cultural_movement/
【パンフレット】https://myrp.maruzen.co.jp/wp-content/uploads/proletaria.pdf

※本資料集刊行プロジェクトを牽引してくださった関西大学名誉教授 浦西和彦先生が、2017年11月16日にお亡くなりになりました。これまでのご指導に感謝するとともに、浦西先生のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。

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2017年度立命館大学国際言語文化研究所連続講座「越境する民―接触/排除」  

主  催 立命館大学国際言語文化研究所
日  時 2017年10月6日・13日・20日・27日(毎金曜日)17:00-19:00
場  所 立命館大学 衣笠キャンパス 創思館カンファレンスルーム
        ※キャンパスマップ30番の建物です。 衣笠キャンパスアクセス

【第1回】10/6(金)「パイレーツ・モダニティ――海賊、奴隷、資本主義」
報告者:   小笠原博毅(神戸大学)
コメンテータ:久野量一(東京外国語大学)
         米山 裕(立命館大学)
司会:     西 成彦(立命館大学)

【第2回】10/13(金)「アメリカ合衆国の国境の現在――難民、強制送還、移民制度と「排出」メカニズム」
報告者:飯尾真貴子(一橋大学)
     佐原彩子(大月短期大学)
司会:  米山 裕(立命館大学)

【第3回】10/20(金)「コンタクトゾーンとしての上海:文学・メディアから浮かび上がる対立の諸相」
報告者:   大橋毅彦(関西学院大学)
        木田隆文(奈良大学)
        堀井弘一郎(日本大学)
コメンテータ: 西 成彦(立命館大学)
司会:     内藤由直(立命館大学)

【第4回】10/27(金)「チャイニーズ・ドリームの光と影―中国におけるアフリカ系コミュニティの形成と交易」
報告者:   ウスビ・サコ(京都精華大学)
コメンテータ:佐久間香子(立命館大学)
報告者・司会:小川さやか(立命館大学)

※事前予約不要・聴講無料
→詳細ポスターはこちら(PDFファイル)

第26回占領開拓文化研究会印象記(2017年8月27日 於同志社大学)

坂崎恭平「永井荷風『冷笑』論――プレテクストの検討を手がかりとして――」

 坂崎氏は永井荷風『冷笑』に引用されている諸作品から丹念に作品の位置を再度設定していく発表だった。『冷笑』にはモーパッサン「蝿」、瀧亭鯉丈『花暦八笑人』が枠として設定されており、仲間たちと世俗を離れて遊楽するという物語の構造が自己言及されている。しかし、『冷笑』においては、八人の仲間は集まらず、その構造が宙吊りにされ、その失敗こそが滑稽味のある成功であるという逆説が呈示されていると坂崎氏は言う。また、『冷笑』にはモリス・バレス、ピエール・ロティなどが引用されており、恋愛を描いたものよりはそれより深い、民族心の自覚につながる風景や人物に対する感動が重要視されていると言う。ここには当時のグスタフ・フレンセンに代表されるポスト自然主義としての郷土芸術の側面があり、作中の江戸趣味は地方色や宗教色を脱色した郷土芸術に可能性を見出したものだったと論じる。『冷笑』は荷風の『ふらんす物語』、『あめりか物語』などに比較して酷評を受けたが、これまでのハイカラ趣味の荷風から、西洋のポスト自然主義文学の理論によって自然主義文壇のヘゲモニーに決別を表したものだったのではないかと最終的に論じられた。
 地方色については、田山花袋や『文章世界』の投稿者などの自然主義としてのイメージが強かったが、むしろ丹念に西洋文壇の当時の様相を追っていくとポスト自然主義芸術の流れであるとする発表は清新だった。また、強固な都市的ハビトゥスの重層化によって洗練された江戸文化を荷風が芸術理論にまで高めるために、どのような論法を駆使していたのか、興味深く聞いた。

伊藤純「「物語」と「読者」を繋ぐものについての考察 中野重治「春さきの風」、小林多喜二「テガミ」、村上春樹「蛍」から」

 伊藤氏は現代においても「春さきの風」への言及が少なくないと述べ、大江健三郎の反原発の演説、『沖縄タイムス』の社説などで「わたしらは屈辱のなかに生きています」という言葉が引用されていることに注目する。結論として労働運動の弾圧というものを「春さきの風」は描きながらも、乳児を放置する母親という描き方には、当時プロレタリア文学全体の中にあったジェンダー不均衡と男性中心からのものの見方が内在化されており、演説などで引用される場合には、このような部分はそぎ落とされているのではないかと論じている。
 小林多喜二「テガミ」については、当時の壁小説という目新しいメディア性に注目が集まったことにふれ、しかし同時に「テガミ」に描かれた絶対的窮乏というものは読者に訴えかける力をもう持っていないのではないかと論じる。また、壁小説というものも『中央公論』などのメディアに載せられた場合のみ残っているのであり、その実在の確認については研究不足ではないかと述べられている。
 村上春樹「蛍」に関しては、『ノルウェイの森』の簡易版であり、短編であるだけてっとり早く、切ない恋物語の抒情にひたることができる小説であると総論している。その上で、「蛍」のヒロインの「彼女」は非定型うつ病の典型として描かれており、大人の社会に適応できない未熟さを悲しい恋を盛り上げるために設定されていると論じる。我々が哺乳動物である限り、ネオテニー的な造形の適応戦略に惹かれざるを得ず、そのために村上春樹は広い読者を得たと最終的に結論している。
 質問では『ノルウェイの森』は同時代的にはそもそも内容は読まれておらず、恋人同士のプレゼントとしてベストセラーになったとの指摘がなされた。個人的にも現代に流通する物語はどのようなものが効力を持ち得るのか興味深く聞いた。

中井祐希「横光利一「厨房日記」論」

 中井氏の発表は、横光利一「厨房日記」を「日本的なもの」ではなく、もっと細かな「民族」、「知性」、「知識人」、「論理」などのキーワードから読み解いていこうと言う試みであった。作中の梶は西洋旅行でツァラなどの知識人と出会っており、彼らがマルクス主義的なものに共感を示すのに対し、日本語の怒声が犬の鳴き声を止めたことを面白がる。梶は超現実ではなく、思想が現実生活に根を下ろさないと意味がないと考えているのではないか、と中井氏は論じている。
 梶は西洋文明の戦中の混迷を知っており、それ故に「今ここにないもの」としての西洋近代化の目標がわからなくなっている。梶を「今・ここ」に立ち返らせるのは、芳江の触れた肌であった。日本人の肉体には日本人特有の知性もまた存在しているのであり、そこに立脚することを梶は求めている。「頭」(思想・認識)と「足」(生活・身体感覚)は連動しなければならないと梶は考えており、中井氏はそれによって知識人の苦悶を解決しようとしているのだと最終的に論じている。
質問者からは、この当時の「故郷喪失」と「日本的なもの」の回復は、スターリニズムの裏返しであり、転向者が打ち立てていった理論ではないか、という声も聞かれた。1930年代の文学、思想を概括するものとして、横光へのマルクス主義への影響なども活発に議論され、これからの研究が大変期待されると考える。

加藤大生「<パン・フォーカス>の歴史認識――花田清輝「画人伝」論」

 加藤氏は、花田清輝「画人伝」に描かれた忠阿弥という虚構の作家の画論の体裁をとって提出される花田の歴史認識の内実を検討した。花田は忠阿弥を武家出身の画家と仮構しており、殺気の漂う画風から突然の発心の瞬間を描いたと論じる。そして、花田は将軍足利義教の暴君説への否定のために忠阿弥の画論を使っていく。加藤氏はそこには「殺すもののセンスを清算して、生かすもののセンスをわがものに」していく非暴力主義の伝統の追求があったと論じる。
 花田は農民一揆を生産の放棄と捉えており、ストライキになぞらえ、非暴力的な積極行動として、暴力論を援用しながら、平和主義の立場をとる。このような花田の立場には、戦後歴史学において、「個人の日常生活史」に焦点を当てた『人物叢書』シリーズが影響していたと加藤氏は指摘する。最後に花田はパン・フォーカスの視点を歴史認識として主張するのであるが、加藤氏はそこに観客の参加を促すより能動的なアヴァンギャルド芸術の視覚を論じていた。
 質問者からは、歴史学としての大衆史にどれだけ花田が漸近していたのかという質問や、モンタージュなどの他の映像理論においても観客の参加を促すものであったのではないかという質問が出、活発な議論がなされた。花田の理論は前衛の理論にも共鳴しており、それの読解はこれからの研究が期待されると考える。

(文責・広島大学大学院文学研究科D3萬田慶太)